一柳 直里(ひとつやなぎ なおさと)は、江戸時代中期の旗本。通称は勘之丞。875石を知行し書院番を務めていたが、不行跡により改易処分を受けた。

生涯

旗本一柳直義(875石)の子として生まれる。この一柳家は、一柳直盛の五男・一柳直澄が立てた家で、父の直義は小松藩主一柳頼邦の五男から養子に入っている。

安永8年(1779年)、父の死により家督を継ぐ。安永9年(1780年)、徳川家治に初謁。天明7年(1787年)に書院番となる。

最初間部詮長の娘を妻とした。次いで後妻として小松藩主一柳頼寿の娘(従姉妹にあたる)を迎え、丑之助を儲けたが、一柳氏とは離縁となっている。

直里は、従者衣笠十兵衛の娘と「密通」しており、彼女を正妻とするために、幕府には猪俣要右衛門則温(御勘定)の養女と届け出て認められた。一族には猪俣の姪と説明していたようである。直里はみだりに庶民を近づけており、直里の駿府在番中に十兵衛やその娘である後妻(則温の養女)が屋敷内で博奕を開いた上、後妻は丑之助を虐待した(「不慈の事ども多かりし」)。これを見かねた使用人が丑之助を誘い、親族のもとに駆け込んで訴える事態に発展した。駿府から帰任した直里に、弟の義路(左門)をはじめとする一族は意見したものの、義里は聞き入れなかった。さらには吉原で遊興するなどの不行跡があり、これらを罪として寛政2年(1790年)11月25日に改易処分となった。『断家譜』では「遠島」とある。

後妻(則温の養女)も同日、継子に対する不慈、夫の留守中の賭博開帳といった行状に加え、取り調べに対して反抗的であったことが不穏当であるとされ(「強て申陳せし状曲事」)、遠流に処せられた。

家族・親族

弟の義路(仙次郎、左門。酒井政共の養子となり政道と名乗ったが、のちに実家に戻った)と妹(『断家譜』によれば夭折)がいる。『寛政譜』によれば子は丑之助のみであるが、『断家譜』によれば猪俣氏との間に女子がいる。

『断家譜』によれば丑之助で家は断絶したとある。『一柳家史紀要』では直里の改易の顛末はおろか名も触れられていないが、「直義の子孫」は小松藩に仕えたといい、昭和初年時点の子孫の情報を載せている。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜』巻第六百三
    • 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
  • 『断家譜』巻第廿九
    • 『断家譜 三』(八木書店、1969年)
  • 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192151。 

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