蔭山氏(かげやまし)は、室町時代から江戸時代にかけて畿内や関東地方で活動した武家。室町幕府の奉公衆を務め、堀越公方・足利政知とともに伊豆国に移り、その後後北条氏に仕えた。『寛政重修諸家譜』では鎌倉公方・足利持氏の末裔を称している。
概要
『寛政重修諸家譜』によれば、源姓蔭山氏の祖は鎌倉公方・足利持氏の7男とされる蔭山広氏である。広氏は、永享の乱で持氏が自害した際に3歳であり、乳母によって伊豆国に逃れ、外戚の苗字であった蔭山氏を名乗った。
黒田基樹は、蔭山氏は本来は室町幕府の奉公衆(『文安年中御番帳』には蔭山修理亮、『東山殿時代大名外様附』には蔭山与次の名前が見える)で、足利政知とともに下向し堀越公方の奉公衆となった(伊勢盛時の同僚であった)とした。
「東大寺文書」には、貞和年間に播磨国大部荘に紀氏一族の蔭山党が悪党として活動していたことが記録されている。なお、播磨国の蔭山氏として、赤松則村の孫・赤松朝範の4世孫に蔭山信房・蔭山信定・蔭山国包兄弟がいる。
延文3年(1358年)12月22日に足利義詮が参内した際に供奉した人物を記録した『宝篋院殿将軍宣下記』には陰山出羽守吉道の名前が見える。
永和2年(1376年)には、播磨国福田保について赤松義則から蔭山次郎右衛門入道に書状が送られている。
明徳3年(1392年)9月26日には、駿河国大岡荘三枚橋城主の影山左京亮基広の三男・阿闍梨日性が西之坊(現在の沼津市岡宮)で死亡したという伝説がある。
『教言卿記』応永15年(1408年)3月24日条には、早歌の好士である蔭山入道実阿の名前が見える。
『康富記』文安5年(1443年)8月3日条には、蔭山兵庫入道道筠が大炊御門高倉南頬道場にて亡くなったことが記されている。道筠は、先月の26日に赤痢に罹っており、享年は63歳であったという。父の蔭山匠作禅門や子の蔭山将監等は遠江国橋本にいたとされる。
「幕府番帳案」には、文安年中に奉公衆五番に蔭山右京亮がいたことが記されている。
長享元年(1487年)には、蔭山与次郎貞廉が足利義尚の鈎の陣に従軍している。
「宝鏡寺文書」には、延徳3年(1491年)11月9日付で蔭山左京亮貞広の文書が存在する。貞広は遠江国浅羽荘(足利義政の娘・光山聖俊の御料所)の代官職を務めていた。
明応2年(1493年)には伊勢盛時が足利茶々丸方についていた河津城の蔭山勘解由を攻めている。
河東の乱では、天文8年(1539年)9月30日付の書状に蔭山与次の名前が確認できる。
天文13年(1544年)6月12日に記された『鶴岡御造営日記』には、北条氏康の家臣として陰山長門守(家広)の名前が見える。
天文13年(1544年)には、10月28日付で松田盛秀の同心衆である蔭山長門守家広に「上方の内かなやみのわ両郷」の代官職を与えた朱印状が送られている。天文13年10月には富士上方で後北条氏と今川氏の抗争があったと考えられており、蔭山家広の寄親の松田盛秀は、翌年に富士下方地域の拠点の吉原城の城将を務めていることが確認されることから、その同心衆が上方地域で代官職を与えられていることとも整合が取れる。
永禄2年(1559年)に北条氏康の下で編纂された「小田原衆所領役帳』によると、蔭山刑部左衛門の所領が「豆州田方、原木之内(現在の原木駅周辺)」にあった。また、小机衆として小机本荘の代官に蔭山又六、遠山衆として蔭山大膳亮がおり、又六は『小田原衆所領役帳』の編纂に携わっている。
永禄3年(1560年)には、松井宗恒の寄子として沓部郷(遠江国山名郡久津部村)の蔭山尾張守・蔭山右京亮の名前が見える。
「相州文書」には、永禄7年(1564年)9月25日付の妙悟(蔭山長門守家広後室)の証文が存在する。
広氏の5世孫の蔭山氏広の妻は北条氏隆あるいは北条氏堯の女で、前夫の正木頼忠との間に生まれた娘を養った。彼女は後に徳川家康との間に徳川頼宣と徳川頼房をもうけ、養珠院と呼ばれた。
系図
凡例 - 実線は実子、点線は養子
脚注
注釈
出典
参考文献
- 太田亮 『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1936年)
- 新井康友 『蔭山・影山一族』(日本家系協会、1985年)全国書誌番号:86017870
関連項目
- 清和源氏
- 藤原氏
- 足利氏



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