弘融(こうゆう、生年不詳 - 元治元年3月4日(1864年4月9日))は、江戸時代中期の真言宗僧。但馬満福寺の第57世住職。字は即成(そくせい)。俗姓は高岡氏。江戸期に「但馬の弘法大師」と呼ばれた弘元上人の高弟。池田草庵の法兄。
来歴
但馬国養父郡大藪領主小出英邨の家来・高岡藤左衛門義熈の四男として生れる。学徳に秀で、幼くして但馬国の名刹・満福寺に入山。僧名は「弘融」。「但馬の弘法大師」と呼ばれた第50世・第52世(重任)住職・弘元上人の薫陶を受け、のち第53世・弘実上人のもとで学ぶ。また高野山塔頭にて勉学修行を行い「傳燈阿遮梨」の印可を受ける。
嘉永7年4月25日(1854年5月21日)、第56世住職・弘詮上人の遷化により満福寺 第57世住職を継ぐ。
弟子に粟鹿・鹿園寺の住職となった弘道や、のち第60世住職を継いだ弘栄上人らがいる。 元治元年3月4日(1864年4月9日)遷化。墓は満福寺歴代住職塋域にあり。
主な弟子
- 弘道上人(粟鹿・鹿園寺住職)
- 弘栄上人(第60世 満福寺住職)
養父神社別当寺住職
水谷山普賢寺
古くより養父郡の一之宮が養父神社であり、同郡の総寺が満福寺として崇敬され、中世以降神仏習合して両社寺は渾然一体とした関係にあったため、弘融上人は養父神社の別当寺である普賢寺(但馬国養父郡 水谷山普賢寺)の第17世住職も兼任した。普賢寺の本尊は薬師如来で、明治維新後の神仏分離令により寺院が廃止されて養父神社単独となり、仏教関連の寺物は満福寺に移管されたが、普賢寺の建物の一部は現在の養父神社の社務所として使用されている。
山野口神社
普賢寺(養父神社)の奥に鎮座する「山野口神社」の御祭神の使いは狼で「狼の宮」との別名もあり、この摂社も江戸時代は普賢寺の住職が祭祀を掌っていた。狛犬の変りに雌雄の狼像を安置し、牛馬に狼の害が及ばないように祈願するためであったが、田畑が猪鹿に荒された時は、この明神へ参り、狼の威を借りて願いを掛けると不思議と猪鹿の害が収まったと言われ、神徳に感謝して近隣の村々から御神酒が奉げられるようになった。これらの狼信仰をもとに、江戸時代『掃部狼婦物語』という民話が書かれた。境内には、1828年(文政11年)奉納の石灯籠、1835年(天保6年)奉納の手水鉢、1836年(天保7年)奉納の石灯籠などがある。
生家
生家の高岡家は、平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄を貫した宇多源氏の源成頼の子孫で、鎌倉時代初期の佐々木秀義の五男・佐々木義清が、承久の変ののち隠岐・出雲の両国守護職を賜い出雲へ下向した。義清の次男・佐々木泰清の一族は土着して繁栄。泰清の八男・宗泰は、隠岐国守護代に任ぜられ、のち出雲国神門郡塩冶郷高岡を領して氏とした。
補註
参考文献
- 『但馬高野 満福寺・池田草庵の実像』明楽弘信著、平成25年(2013年)
- 『但馬高野 満福寺・真言宗の教えと陽明学』明楽弘信著、平成28年(2016年)
- 『西の高野山 満福寺・満福寺の歴史のまとめ』明楽弘信著、平成30年(2018年)
関連項目
- 高野山
- 満福寺
- 養父神社




